2009/07/18
21:27:19
制約された時間の中で日々生活している私達は皆全員死というものが訪れる。
死とは何か、それは生と対をなす存在でありまた死というもの自体に明確な規定もされておらず個体が物(物質)となった状態に死と呼ばれる。
今の私は一般に言う死の状態ではない。
また、このことから私は現在生の状態にある。
私達は気が付けばまず生の状態にある。いくら記憶を遡ろうとも決して生からは脱することはできないのである。私達の個体、そして意識は気が付けばいたというのが不十分ながらも表現として通る。
自らの個体と意識は今ここに存在しなければならないという目的意識によって存在しているわけではなく、存在しているという基本条件から存在しているのであってそこから存在のための目的を見出だし行動をしているのである。
その中で自らが存在している自覚、また目的を見出だす初期段階、言うなれば物心がつきはじめたとき。
私達はこの段階で早かれ遅かれ人間は皆死ぬという概念が芽生えはじめる。これは同時にして意識せずとも制約された時間の自覚、そしてそれによる自己存在の目的意識へと繋がっていくのである。
この中でなぜ人は皆死ぬということを知るのか。それが一番身近なのは近くの人の死だ。
しかしこれもまたなぜその死というものが自分にもくると思うのか、それはその個体独自のものだと考えようとはしないのか。
これは人間独特の共有・共感性によるものである。誰かの死を悲しいと思うのはそこに故人と自らの繋がり、共有していたことが断絶するからであって、また相手の気持ちを察するという行為は相手との感情の同調を示している。
そして自らの死には恐怖を覚える。
それは先ほど述べたように死を感じ取り自然科学的にいう個体の解体。自という個体の喪失。その未知の領域に恐怖を感じ取るのである。
それにより様々な解釈をつくり自らを慰めるのである。自然科学の私達は循環のなかで生きているからだというものはやや逆説的なものでもある
確かに循環しているが私達人間はそれを打ち切ろうとしている存在であるし、結果として循環しているというものがありそこに目的を見出だすことはできずとも自らは大きな流れのなかの一部だと認識することができるからである。
無論、私は高名な科学者でもない。この自然科学は人間のなかでもっとも論理的な考え方である。その中で私達はこれらのことから何を感じるのかを着眼しているだけのことである。
そしてもうひとつは宗教である。
どの宗教も主要なことは死についてである。
いいことをすれば天国へ行けると言うように、私達に死の観念の解釈の仕方をさまざまに作り上げるのである。
共通して言えることは何か人間の力ではどうしようもできない超越的な力が働くというものにより私達が抱える死の恐怖と不安を宗教を信仰することにより和らげることができるのである。
また、その超越的力を働かせる者を神と呼ばれるのである。
そしてこの宗教は人間にとって重要な一部である。
科学ではまだ無理な部分を補い、人間に死生観について説く。私達は少なからずこの死生観に影響を受けている。
人はなぜ死に不安や恐怖を抱くのか。
それは知らないからだ、そして未知の世界に不安を覚える。
かろうじて理解している自ガ自でなくなるということに恐怖を抱く。
対をなす基本条件にある生もまた知らないことではないのか。
私達はもとから生であり生の根本はしらない。
ただ今の私達が「生きているのだと」いうことを自覚しているだけだ。
私達はほとんどのことを知らない。
明日のこともまた知らない。しかし私達は明日から恐怖となる未知をもてる数少ない知識で取り除くのである。一般的真理が毎日が同じように流れていくと感じないと生きていけないように。
明日についても、きっと明日も日は昇るだろうし、明日も学校はあるだろうし、またそこに通わなければならないのだと未知を取り除くのである。
できうる限りの未知を取り除き日々を生活していくと最終的に行き着く未知がある。
それが死であり取り除くことのできないものなのである。
私にはいつその日がくるのだろうか。
これもまた私は知らない
死とは何か、それは生と対をなす存在でありまた死というもの自体に明確な規定もされておらず個体が物(物質)となった状態に死と呼ばれる。
今の私は一般に言う死の状態ではない。
また、このことから私は現在生の状態にある。
私達は気が付けばまず生の状態にある。いくら記憶を遡ろうとも決して生からは脱することはできないのである。私達の個体、そして意識は気が付けばいたというのが不十分ながらも表現として通る。
自らの個体と意識は今ここに存在しなければならないという目的意識によって存在しているわけではなく、存在しているという基本条件から存在しているのであってそこから存在のための目的を見出だし行動をしているのである。
その中で自らが存在している自覚、また目的を見出だす初期段階、言うなれば物心がつきはじめたとき。
私達はこの段階で早かれ遅かれ人間は皆死ぬという概念が芽生えはじめる。これは同時にして意識せずとも制約された時間の自覚、そしてそれによる自己存在の目的意識へと繋がっていくのである。
この中でなぜ人は皆死ぬということを知るのか。それが一番身近なのは近くの人の死だ。
しかしこれもまたなぜその死というものが自分にもくると思うのか、それはその個体独自のものだと考えようとはしないのか。
これは人間独特の共有・共感性によるものである。誰かの死を悲しいと思うのはそこに故人と自らの繋がり、共有していたことが断絶するからであって、また相手の気持ちを察するという行為は相手との感情の同調を示している。
そして自らの死には恐怖を覚える。
それは先ほど述べたように死を感じ取り自然科学的にいう個体の解体。自という個体の喪失。その未知の領域に恐怖を感じ取るのである。
それにより様々な解釈をつくり自らを慰めるのである。自然科学の私達は循環のなかで生きているからだというものはやや逆説的なものでもある
確かに循環しているが私達人間はそれを打ち切ろうとしている存在であるし、結果として循環しているというものがありそこに目的を見出だすことはできずとも自らは大きな流れのなかの一部だと認識することができるからである。
無論、私は高名な科学者でもない。この自然科学は人間のなかでもっとも論理的な考え方である。その中で私達はこれらのことから何を感じるのかを着眼しているだけのことである。
そしてもうひとつは宗教である。
どの宗教も主要なことは死についてである。
いいことをすれば天国へ行けると言うように、私達に死の観念の解釈の仕方をさまざまに作り上げるのである。
共通して言えることは何か人間の力ではどうしようもできない超越的な力が働くというものにより私達が抱える死の恐怖と不安を宗教を信仰することにより和らげることができるのである。
また、その超越的力を働かせる者を神と呼ばれるのである。
そしてこの宗教は人間にとって重要な一部である。
科学ではまだ無理な部分を補い、人間に死生観について説く。私達は少なからずこの死生観に影響を受けている。
人はなぜ死に不安や恐怖を抱くのか。
それは知らないからだ、そして未知の世界に不安を覚える。
かろうじて理解している自ガ自でなくなるということに恐怖を抱く。
対をなす基本条件にある生もまた知らないことではないのか。
私達はもとから生であり生の根本はしらない。
ただ今の私達が「生きているのだと」いうことを自覚しているだけだ。
私達はほとんどのことを知らない。
明日のこともまた知らない。しかし私達は明日から恐怖となる未知をもてる数少ない知識で取り除くのである。一般的真理が毎日が同じように流れていくと感じないと生きていけないように。
明日についても、きっと明日も日は昇るだろうし、明日も学校はあるだろうし、またそこに通わなければならないのだと未知を取り除くのである。
できうる限りの未知を取り除き日々を生活していくと最終的に行き着く未知がある。
それが死であり取り除くことのできないものなのである。
私にはいつその日がくるのだろうか。
これもまた私は知らない
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