2009/07/11
20:17:16
真面目に哲学勉強しようかと思う。
この言葉自体に語弊があるのが哲学だが…本は読んでみようかと思う
まず今日のお題から。
人生という物語の中で主人公は誰ですか?
それは自分だ。
私達は全てにおいて主観的にしか見ることはできない。
なぜなら私達が物事を判断するときの基準は私にしかないからである。私達は相手を客観的に見ることはできるが自分自身を客観的には見ることはできない。
相手の気持ちを聞くことはできても言葉というフィルターによって大まかにしかしることはできず完全にしりえない。また別の領域である。
私という個しかよく知ることはできない。
つまり私達は私達主体で回っているように思うわけだ。
そして全員が全員そうなのだ。通りすがった人にもその人主体の世界が回っているわけだし。また私もそうなるわけである。それらが共通して存在するのがこの世界である。
私達はそれぞれ主体の世界があり、何かをするときには必ず自分がいるわけである。
またこの主体も個々が離れているわけではなくどこかで結びつくわけではあるが永続的にとはいかないのである、その点、私と主体の世界は同一でなければ成り立たないものだと思う。
例えば私が誰かと話をしている時、私とその人の主体の世界は交わっているが
別れればお互いの世界は断絶するわけだ。干渉することはできない。しかしその時も私は私から離れることはないのである
私という自我の要素には私がいて細かく言うと価値観や私の基準、しいては私が見る世界である。
すべてにおいての価値観は私の基準である。
どう思うかもどうしたいのかも。
また、その私の行為もまたまた別の主体基準によって判断される。
相手に伝えたい言葉もまた、相手の基準によって変化し受け取られてしまう。
個々の基準と価値観の存在するなかでは自分について完全に伝えることはできない。
私達は自分の見る世界しか知らない。これは固まった観念にも似ている。私を通してしか見れないからである。
だから私を認識することは相手を認識しそれによって自分の存在を見なければいけない。
私は私である
この言葉自体に語弊があるのが哲学だが…本は読んでみようかと思う
まず今日のお題から。
人生という物語の中で主人公は誰ですか?
それは自分だ。
私達は全てにおいて主観的にしか見ることはできない。
なぜなら私達が物事を判断するときの基準は私にしかないからである。私達は相手を客観的に見ることはできるが自分自身を客観的には見ることはできない。
相手の気持ちを聞くことはできても言葉というフィルターによって大まかにしかしることはできず完全にしりえない。また別の領域である。
私という個しかよく知ることはできない。
つまり私達は私達主体で回っているように思うわけだ。
そして全員が全員そうなのだ。通りすがった人にもその人主体の世界が回っているわけだし。また私もそうなるわけである。それらが共通して存在するのがこの世界である。
私達はそれぞれ主体の世界があり、何かをするときには必ず自分がいるわけである。
またこの主体も個々が離れているわけではなくどこかで結びつくわけではあるが永続的にとはいかないのである、その点、私と主体の世界は同一でなければ成り立たないものだと思う。
例えば私が誰かと話をしている時、私とその人の主体の世界は交わっているが
別れればお互いの世界は断絶するわけだ。干渉することはできない。しかしその時も私は私から離れることはないのである
私という自我の要素には私がいて細かく言うと価値観や私の基準、しいては私が見る世界である。
すべてにおいての価値観は私の基準である。
どう思うかもどうしたいのかも。
また、その私の行為もまたまた別の主体基準によって判断される。
相手に伝えたい言葉もまた、相手の基準によって変化し受け取られてしまう。
個々の基準と価値観の存在するなかでは自分について完全に伝えることはできない。
私達は自分の見る世界しか知らない。これは固まった観念にも似ている。私を通してしか見れないからである。
だから私を認識することは相手を認識しそれによって自分の存在を見なければいけない。
私は私である
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